『ハーフリアル』を読みました
ゲーム研究の書籍として毎回挙げられる『ハーフリアル』をようやく読んだ。
ヘッダー画像は、ニューゲームズオーダーの web サイトから書影を引用しました。
出典:ニューゲームズオーダー、『ハーフリアル』 https://www.newgamesorder.jp/games/half-real (2025年8月23日アクセス)
ユールが行なった(古典的)ゲームモデルの定義はこれまで様々なところで間接的に見聞きしていたが、改めて原典に触れると、なるほど確かに現代的な視点で(デジタルゲームを視野に入れて)ゲームの定義が整理されており、説得力がある。
今さらこの本について紹介するのもおこがましいが、いくつか印象に残ったところを書き残そうと思う。
存在論と美学
ビデオゲームとはなんであるか(存在論)を論じることもできるし、ビデオゲームはどうあるべきか、ビデオゲームを楽しいものにするのはなんなのか(美学)を論じることもできる。
序論、 p. 29
これまでゲームの面白さを考えるときに、意図せず行ったり来たりして、ともすれば混乱の原因にもなっていたふたつの観点が、こんなにも簡潔に説明されてしまった。
ゲームという多様なものについて議論するとき、共通認識(理論)としての「存在論」と実践としての「美学」を往復することになる。そのことを自覚的になれたのはありがたい。
挑戦によってフィクションは無視される
ひとつのゲームが持つフィクションの側面がプレイの過程でどのようにして徐々に重要さを失っていくのかを説明できる。つまり、プレイヤーは、ルールのうちに実装されていない虚構世界の要素を無視することを学習していくのだ。
Chapter 3 ルール、 p. 128
プレイヤーは、はじめのうちはグラフィックに魅力を覚えていた。しかし、プレイ時間が増えるにしたがって、グラフィックが粗くなるようにマシンの設定を変え始めた。(中略)ようするに、プレイヤーは、ゲームに慣れるにつれて、グラフィックがどうでもよくなっていったわけだ。
Chapter 4 フィクション、 p. 173
多くのプレイヤーに見られる攻略重視・効率重視が自分は苦手だった。しかし、それが学習の結果であること、ゲームプレイが学習の一環であることを考えると、仕方のないことなのだろう。
本全体を通して、ユールはルールとフィクション(話に聞くルドロジーとナラトロジーの対立関係に対応するのだろう)を平等に扱おうとしている。しかし実際の内容としては、ゲームにおけるフィクションの美点より非整合性に関心が偏っているように、自分は感じた。
ゲームにおける時間
Chapter 4、 pp. 175-190 にかけて、「ゲームにおける時間」を扱っている。同時ターン制ファンの自分としてはとても興味を引く見出しだったのだが……ここに限っては、正直苛立たしさすら感じてしまった。
というのも、ここでは「いかにゲームのフィクションが非整合的か」ということを証明するため、ゲームにおける時間の流れの不自然なところをいくつも抜き出して仰々しく説明していく。
(『空想科学読本』に苛立ちを覚える人の気持ちがわかった気がした。)
ゲームプレイが「半分現実」であるという結論を目指す以上、必要な作業ではあったのだろう。しかし、いかに非整合的かという指摘に終止して、その非整合性(虚構性)によって何が表現・実現されたのかはほとんど取り沙汰されない。ルールが生み出すもの(アフォーダンスや創発的活動)については書いているのに……
ここまで書いてふと思ったのだが、この自分の違和感は、自分が時間を「フィクション」ではなく「ルール」として捉えているからかも知れない。
つまり、ゲームにおける時間表現を、表象的なフィクションとしてではなく、物理法則(非明示的ルール)のひとつとして考えていたようだ。だからこそ、その不自然さ・非整合性を指摘されても 「紙(パー)が石(グー)を包んで勝つとかおかしいでしょ(笑)」 と言われているようにしか感じないのだろう。
そして、この考えは今も変わらない。時間といえど、重力や質量と同じように、ゲームにおいては設計されるルールであり、考えるべきはその不自然さではなく、 その設計(ターン制かリアルタイム制か、カットやスローの演出はあるか、可逆か不可逆か)によってプレイヤーは何ができるようになるのか(どんなアフォーダンスを与えられるか)が重要だろう。
出典
Jesper Juul 著、松永伸司 訳『ハーフリアル』ニューゲームズオーダー、2016。

